単語帳を閉じた木曜の夜、私は自分の意志を疑っていた
先週の木曜、22時半。営業事務の残業で肩がこって、コンビニの袋を玄関に置いたまま、ソファに沈んだ。カバンの中には3日前に買った単語帳が入っている。金色の帯に「1ヶ月で基礎固め」と書いてあった、あれだ。ページを開こうと手を伸ばしかけて、そのままスマホを取った。気づいたら日付が変わっていて、単語帳は結局カバンから出さなかった。
これで何度目だろう。数えるのも嫌になるくらい、同じ夜を繰り返してきた。教材を買った直後の3日間はやる。4日目に疲れて飛ばす。5日目に「昨日サボったし今日もいいか」と思う。1週間後にはもう存在を忘れている。単語帳、発音アプリ、無料の学習サイト、YouTubeの再生リスト。買っては閉じ、開いては忘れ、を27歳になるまで続けてきた。
その夜、寝る前に「英語 独学 限界 30代」で検索した。上位に並ぶ記事は、どれも私に「あなたの意志の問題ではありません」と優しく言ってくれた。独学には限界がある、ネイティブと話す機会がないからだ、発音のクセに自分では気づけないからだ、と。読んでいると少し楽になった。私が悪いんじゃない、独学という手段が悪いんだ、と思えたから。
でも朝、月曜の通勤電車で吊り革につかまりながら、その安心がぜんぶ空回りしていることに気づいた。私はまだネイティブと話す段階に一度もたどり着いていない。発音のクセ以前に、発音の練習を3日以上続けたことがない。上位記事が語る「独学の限界」は、勉強を3ヶ月続けた人がやっと見る景色だった。私が見ているのは、いつも4日目のカバンの底で眠る単語帳だ。
「限界」という言葉に、2種類の意味が混ざっている
検索して読んだ記事のほとんどが、限界という言葉を独学のスペックの話として扱っていた。独学だと発音が矯正されない、独学だとアウトプットの場がない、独学だと孤独で心が折れる。全部その通りだと思う。ただ、それは英語力を上に伸ばそうとしたときにぶつかる天井の話だ。
私が知りたかった限界は、まったく別のところにある。伸びるか伸びないか以前の、続くか続かないか、という一歩手前の話だ。TOEIC900を目指す人が「独学だと発音が限界」と言うのと、私が「独学が限界」とつぶやくのとでは、同じ4文字でも指しているものが違う。前者は上りきれない天井、後者はスタート地点から3日でずり落ちる坂だ。
私がぶつかっていたのは坂の途中ですらなかった
去年の4月、通勤アプリの広告で見た無料の英語学習サービスに登録した。1日5分の穴埋めクイズを解いていくやつで、最初の3日は昼休みにちゃんとやった。かわいいキャラが「3日連続達成!」と褒めてくれて、悪くない気分だった。4日目、取引先へのメールが立て込んで昼休みが消えた。5日目、キャラの祝福が途切れたことに軽く後ろめたさを感じて、逆にアプリを開けなくなった。6日目には通知をオフにしていた。
これのどこにネイティブが関係するだろう。発音のクセも一切関係ない。私は英語そのものにぶつかって止まったのではなく、平日の昼休みという15分が一度乱れただけで全体が崩れた。上位記事が丁寧に解説する独学の弱点は、私の止まり方を1ミリも説明していなかった。
3ヶ月続いた人の悩みを、3日で止まる人が読んでも刺さらない
ネイティブと話す機会がない。これは独学を3ヶ月やり抜いて、単語も文法もある程度入って、さあ話してみようとしたときに初めて出てくる悩みだ。私にとっては遠い星の話だった。発音のクセに気づけないのも同じで、そもそも声に出して英語を読む習慣が3日で消える人間に、クセを直す機会は永遠に来ない。
だから記事を読み終えて「なるほど、コーチをつければいいのか」と納得しても、私はまた無料アプリをダウンロードして、また3日で閉じた。手段を語る記事は山ほどあるのに、その手段に着地する前に脱落する私の話は、どこにも書いていなかった。
独学が30代の私と相性が悪いのは、逃げ道が全部開いているからだ
意志が弱いからだ、と何年も自分を責めてきた。でも去年、仕事で使う経費精算のルールが変わったとき、私は3日どころか毎日きっちり新しい手順を守った。上司に提出期限があって、遅れると誰かに迷惑がかかって、やらなかったら明確に困る人がいたからだ。英語だけが続かないのは、私の意志が英語のときだけ蒸発するからじゃない。
締切がない、現在地が見えない、基準は自分でいくらでも下げられる
独学の英語には、経費精算にあった条件がひとつもなかった。まず締切がない。今日やらなくても明日やらなくても、誰も何も言わない。ワーホリに行きたいという願望はあるけれど、それはふわっと「30歳までに」という霧の中にあって、今週の私を動かす力を持たない。
次に現在地が見えない。単語帳を3ページやったところで、自分が全体のどこにいるのか、あと何をやれば話せるようになるのか、まったく分からない。ゴールまでの距離が測れないから、1日サボっても遅れている感覚が湧かない。手応えのなさが、そのまま「今日はいいや」の許可証になる。
最後に、基準を自分で甘くできてしまう。今日は疲れたから単語10個を5個にしよう、5個もきついから明日まとめてやろう、まとめてやるのが無理だから今週は休もう。誰にも見られていないから、ハードルはどこまでも下がる。この3つが揃うと、勉強はやってもやらなくてもいい行事になる。私が止まったのは意志の弱さより、この逃げ道の開けっぱなしのせいだった。
先延ばしがうまい人ほど、独学の余白に沈む
私は先延ばしがうまい。英語を「いつかやる」と言い続けて5年、後回しにしても日常は何も壊れなかったから、後回しの技術だけが上達した。そういう人間に、締切もなく現在地も見えず基準も自由な独学を渡すのは、ダイエット中の私に「冷蔵庫のケーキは好きなときに好きなだけどうぞ」と言うのと同じだ。食べないほうが無理だ。
だから私に必要なのは、逃げ道をひとつずつ塞いでくれる仕組みだった。今日やる分がはっきり決まっていて、やらなかったことが目に見えて、勝手にハードルを下げられない何かだ。それが人なのかアプリなのかは、この時点ではまだ分からなかった。
「今からでも遅くない」が、私にとっては一番危ない一言だった
年齢の話になると、どの記事も急に優しくなる。大人でも子どもと習得速度は変わらない、40代50代から話せるようになった人もいる、だから30代なんて全然遅くない、と。読むたびに胸をなでおろした。まだ間に合う、まだ大丈夫、と。
その「まだ大丈夫」が、私を一番深く後回しに沈めてきた張本人だと気づいたのは、つい先月だ。ワーホリのビザ申請には年齢の上限がある。ほとんどの国で、申請時点で30歳まで。私が今27歳ということは、残りは実質2年ちょっと。しかも申請してから渡航まで準備期間もいる。「遅くない」の余白は、私の頭の中で勝手に「じゃあ来年でいいか」の余白に変換されていた。
伸びるかどうかより、あと何回後回しできるかを数えた
ある夜、電卓アプリを開いて計算した。今27歳、申請の締切が30歳の誕生日だとして、残り2年8ヶ月ほど。そのうち英語をゼロから会話できるところまで持っていくのに、少なく見積もっても1年はほしい。準備や貯金や仕事の引き継ぎに半年。逆算すると、英語の勉強を本格的に始められるのは、遅くとも来年の前半までだ。
これまで私は「あと何歳まで脳が伸びるか」を気にしていた。でも本当に数えるべきは「あと何回、今度こそ、を言えるか」だった。今度こそ独学で、を私は年に2回か3回のペースで宣言しては溶かしてきた。残り2年8ヶ月で、まともに使える回数はもう5回か6回しかない。そのうちの何回かは、今までと同じ3日で終わる。そう考えたら、遅くないという慰めは、私にとって危険な麻酔だった。
時間の減り方を、体重計みたいに毎日見たかった
後回しが怖いのは、減っているのに減っている実感がないからだ。貯金と同じで、月末に通帳を見て初めて青ざめる。年齢の余白も、誕生日が来て初めて「え、もう28か」と焦る。焦ったころには、また1年後回しにできる余白が目減りしている。
だから私は、勉強を続けるかどうかの前に、時間の減り方を毎日見える形にしたかった。今日やったか、やらなかったか。あと何日で私の「いつか」が「無理だった」に変わるか。それが視界に入っていない限り、私はまた木曜の夜にソファに沈む。
4回目の独学に手を出す前に、続く仕組みを外から借りることにした
ここまで書いてきた3つの数字を、もう一度並べる。3日で閉じる私の脱落サイクル。逃げ道が全部開いている独学の3つの穴。そして残り2年8ヶ月という締切。この3つを見たとき、次に単語帳を買うのが最悪の手だとやっと分かった。買った瞬間から、私は4回目の3日カウントを始めるだけだ。
必要なのは、私の代わりに逃げ道を塞いでくれる誰かか何かだった。今日やる分を決めてくれて、やらなかったら分かる仕組みがあって、基準を私の気分で下げさせない。それさえあれば、私の意志の弱さは同じままでも、続く確率だけは変わる。経費精算が続いたのと同じ理屈だ。
まず試したのは、話す相手が毎日いる状態を作ること
アプリで完結させると、私はまた通知をオフにする。それが分かっていたから、人と約束する形を探した。オンライン英会話のスパトレは、25分のレッスンを毎日入れられて、料金も月6,000円弱と続けやすい水準だった。何より、予約した時間に相手が待っているという事実が効いた。単語帳は開かなくても誰も困らないが、講師が画面の向こうで待っているのは無視しにくい。ここに、私が独学で作れなかった締切と現在地が同時に生まれた。
初回、まともに文が組み立てられず、単語を並べるだけで25分が終わった。でも終わったあと、初めて「今日は何かやった」という手応えが残った。3日で閉じる予感がしなかったのは、明日また同じ時間に予約が入っていたからだ。
会話の前に、口に出す下地を毎日5分でならす
ただ、いきなり話す場だけだと、話すネタも表現も足りなくて、レッスンが単語の羅列で終わる日が続いた。会話を成り立たせるための素振りが要る、と感じた。そこで日常会話に寄せた教材で、ドラマ仕立てのストーリーを見ながら口に出す練習を挟むことにした。スタディサプリENGLISHの新日常英会話コースは、1回分が短くて、通勤の電車でも回せる。7日間の無料体験があったので、まず期限が切られた状態で試して、続けられるかを自分で確かめた。
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朝の電車で5分ならして、夜に会話で使う。この2つを組み合わせたら、今日やる分が勝手に決まった。朝のならしをサボると夜の会話で困るから、朝もサボりにくい。私が独学で作れなかった連鎖が、外から借りた仕組みの中では自然に回った。無料体験の7日間で、少なくとも通勤の5分は途切れなかった。これは過去のどのアプリでも起きなかったことだ。
今週その場で切れる、最初の一手
いろいろ書いたけれど、この記事を読み終えた私がやったのは、単純なことだ。まず新日常英会話コースの無料体験に登録して、明日の朝の電車で1話だけ再生する。それと並行して、スパトレのレッスンを今週の平日3日分だけ予約する。1週間まとめてではなく、まず3日。3日で閉じる私が、その3日を全部消化できたら、それは過去5年で一度もなかった記録になる。
意志を鍛え直すつもりはない。27歳になるまで鍛えられなかったものを、あと2年8ヶ月で鍛える自信はない。だから鍛えるのはやめて、続く条件を外から借りる。予約という締切、毎日の会話という現在地、勝手に下げられない相手の存在。この3つを揃えた状態で明日を迎えるだけで、4回目の独学とはまったく違う場所に立てる。
木曜の夜、またソファに沈む未来を私はもう知っている。でも今週は、その前に明日の予約が1件入っている。単語帳は今日もカバンの底で眠っているけれど、それはもういい。閉じないやり方を、やっと自分の外に見つけたから。
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