電卓を叩いて出した150万を、私は3回書き直した
去年の12月、仕事納めの帰り道だった。スマホの家計簿アプリを開いて、貯金の残高を見て、それからブラウザで開いたままにしていたワーホリ費用のまとめ記事に戻った。総額150万。この数字を見るのはもう何回目かわからない。ボーナスが入ったばかりで口座には少し余裕があって、それでもその150万という壁を越える気配は一向にしなかった。
電車の中で私は、記事に載っていた項目をひとつずつ自分の電卓アプリに打ち込んでいった。航空券24万、保険25万3,000円、ビザの申請料が約3万3,000円、指紋認証が約1万円、残高証明で見せるカナダドル2,500が約28万5,000円。ここまでで82万円ちょっと。さらに語学学校を3ヶ月で30万、現地の家賃と食費の初月ぶんで15万。足していくと、たしかに150万に近づいていく。
3回打ち直したのは、どこかを削れば少しは軽くなるんじゃないかと思ったからだ。語学学校を短くしたら26万浮く、安い都市を選んだら年間で60万近く違う、シェアハウスにすれば月3万減る。削っては足し、足しては削る。でも家に着くころには、私は自分がとても大事なことを見落としているのに気づいてもいなかった。この82万も、150万も、全部が飛行機に乗る前の話だったということに。
渡航した先で、私がいつ最初の給料をもらえるのか。その1点だけ、どの記事の見積もり表にも1行も書かれていなかった。
まとめ記事が並べる項目は、全部「出発の日までに金額が決まる」ものだった
改めて見積もり表を眺め直すと、妙なことに気づいた。並んでいる数字は、種類がぜんぶ同じなのだ。ビザ代も航空券も保険も残高証明も語学学校の授業料も、私が日本の空港でゲートをくぐる、その瞬間までに1円単位まで確定する。値段が動くとしたら、航空券をオフシーズンにするとか、都市を変えるとか、そういう出発前の選択の話に限られていた。
言いかえると、この150万は「準備の総額」だった。準備を全部終えて飛行機に乗った時点で、私が使い切る、あるいは手元に残す金額。ところがワーホリという1年間の本体は、その飛行機を降りてから始まる。降りてから最初の給料が振り込まれるまで、私は収入ゼロのまま家賃を払い、食費を払い、交通費を払い続ける。この期間の出費は、日本を出る前にはびた一文確定していない。
「実質負担0〜80万」という幅に、私はまんまと安心させられていた
まとめ記事の後半には、たいてい救いのような数字が置いてある。ブリティッシュコロンビア州の最低賃金が時給17.85ドル、月に160時間働けば約22万円、これを毎月の支出から引けば実質の負担は0円から80万円まで下がる、と。私はこの幅を見て、じゃあ150万も貯めれば実質はもっと少なくて済むんだ、と勝手に胸をなでおろしていた。
でもこの引き算には、こっそり前提が仕込まれている。「月22万を稼げたら」という一言だ。稼ぐには仕事に採用されなきゃいけない。採用されるには、面接で相手の質問が聞き取れて、レジや接客で最低限の受け答えができないといけない。その英語が私の口から出るかどうかは、費用の計算式の外に、まるで最初から決まった数字みたいに置き去りにされていた。実際は、そこがいちばん人によって動く部分なのに。
削れるコツばかり丁寧で、いつ収入に変わるかは軽く流される
面白いのは、答えの半分は同じ記事に書いてあることだ。節約術の欄に「早く就職すれば月20万から35万入る」と、ちゃんと1行ある。ところがこの1行は数ある節約テクの中の1つとして、航空券を安くする話やシェアハウスにする話と横並びで軽く流されていく。就職の早さこそが1年の総額をひっくり返す一番の要素なのに、その扱いは家賃を月1万円下げる話と同じ重さだった。だから私は、いくら貯めて何を削るかは隅々まで覚えたのに、貯めた金が現地で何ヶ月もつのかは何も知らないまま画面を閉じていた。
「多く貯めた人が安心」という思い込みを、私は一度ほどいてみた
150万を貯めるのに、私の収入だとどれくらいかかるだろうと計算したことがある。手取りから毎月4万を貯金に回して、ボーナスで年に20万足して。ざっと2年半だった。私が27歳だから、貯め終わるころには29歳の後半。30歳をタイムリミットに感じている私にとって、2年半という時間はほとんど笑えない長さだった。
ここで発想を変えてみた。仮に貯金を120万で切り上げて飛んだとする。手元は30万少ない。でも渡航後2週間で仕事が決まる英語を持っていたら、月22万の収入が3ヶ月早く立ち上がる。3ヶ月ぶんの生活費、月13万として39万が無収入で溶けずに済む。つまり貯金を30万減らして早く出た人のほうが、現地の立ち上がりでは黒字になりうる。
無収入で過ごす1ヶ月が、いくら食いつぶすのか数えてみた
私は現地の初月をこう見積もった。家賃がシェアハウスで月9万、食費が月3万5,000円、携帯とネットで5,000円、交通費が1万、日用品と外食で1万。合わせて月15万。仕事が決まるまでこれを丸ごと貯金から引かれ続ける。もし仕事探しに3ヶ月かかれば45万が消える。1ヶ月で決まれば15万で済む。この差の30万は、私が2年近くかけて貯める額の半分近くだ。
150万の見積もりが1円単位でこだわっていた航空券の3万や語学学校の授業料の10万は、この立ち上がりの差の前ではかすんで見えた。総額を本当に動かしていたのは、私が現地でどれだけ早く採用面接を通れるか、その1点だった。そしてその1点は、貯金額をどれだけ積んでも1日も縮まらない。
貯金の多さが、逆に立ち上がりを遅らせることもある
これは意地悪な話に聞こえるかもしれない。手元に150万あると、焦らなくていい。月15万溶けても10ヶ月は生きられる計算になる。すると私は、たぶん最初の1ヶ月を観光と生活の慣れに使い、2ヶ月目にようやく履歴書を配り始める。英語が不安なら、まず語学学校をもう少し延ばそうかと考える。手元の余裕が、私の一歩目を先送りさせる。貯めた安心が、収入への転換を遅らせて、結果としていちばん高くつく。この皮肉に気づいたとき、私は貯金計画の紙をいったん閉じた。
「現地に着いてから英語を伸ばす」が効かない理由を、私は身をもって知っている
渡航してから語学学校に通えば英語は伸びる、という前提を、多くの人が置いている。私も置いていた。でもよく考えると、これは順番が逆だった。学校に通っている3ヶ月、私は月10万から15万の授業料を払いながら、同時に月15万の生活費も溶かしている。収入はゼロ。学校を出るころには最低でも75万が消えて、それでようやくバイトの面接に行ける英語になる、かどうか。
面接で聞かれるのは決まった型がある。「なぜここで働きたいのか」「いつから入れるか」「週に何日入れるか」「前に接客の経験はあるか」。この4つか5つに、詰まらずに答えられるかどうか。教室で文法を学ぶ時間とは別の技能だ。私が過去に苦い経験をしたのは、まさにこの「頭ではわかるのに口が動かない」の壁だった。テキストの穴埋めは解けるのに、いざ人を前にすると1語も出てこない。この壁を現地の高い物価の中で越えようとするのが、いちばん出費のかさむやり方だった。
渡航前に立ち上がりの日数を縮めるという発想
だったら日本にいるうちに、面接で口が動く状態まで持っていければいい。現地で払う月75万の授業料と月15万の生活費を無収入で溶かす代わりに、まだ収入のある今の生活の中で、面接の受け答えを声に出して繰り返しておく。この準備が渡航後の仕事探しを1ヶ月縮めれば、それだけで15万の節約になる。2ヶ月縮めれば30万。貯金を積むより、この日数を削るほうが総額に効く。
私が試したのは、渡航前にオンラインで海外の環境を体験できる仕組みだった。ネイティブキャンプ留学は、実際に飛ぶ前に費用の見積もりを無料で出してくれるので、私は自分の場合いくらかかるのかを、まとめ記事の平均値ではなく自分の条件で確かめるところから始めた。
面接の受け答えを、渡航3ヶ月前から声に出す
私が自分に課したのは単純な練習だ。仕事の面接で聞かれる質問を10個書き出して、それぞれに自分の答えを英語で用意する。ただし書くだけでは意味がない。私は過去に、書けるのに話せないで失敗している。だから毎晩22時半に、その答えを画面の相手に向かって声に出す。1回25分。詰まっても止めない。相手が予想外の追加質問をしてきたら、そこでどう返すかを覚えていく。これを3ヶ月続ければ、面接の型に体が慣れる。現地に着いて履歴書を配り始めるとき、口が動く状態で臨める。
150万を貯め始める前に、私が最初に置いた一手
順番を整理しておく。まず現地で無収入のまま溶ける生活費が、1年の総額を最も大きく動かす。次に、その無収入の期間を縮める鍵は、面接で口が動く英語を渡航前に用意することにある。だから貯金の計画を立て直すより先に、私は自分の英語がいま面接に耐えるのかを測ることから始めた。
ここで大事なのは、独学で漠然と単語帳をめくることではなかった。私は過去にそれで5年を後回しにしている。何が足りないかを人に見てもらって、渡航までの残り月数で何を優先するかの順番を決めてもらう必要があった。留学情報館の無料カウンセリングでは、ワーホリの費用だけでなく、いつ出発していつ仕事を立ち上げるかまで含めた計画を相談できたので、私は自分の30歳というタイムリミットから逆算した現実的な日程をそこで組んだ。
今週のうちに私がやったこと
具体的に動いたのは3つだ。1つ目、見積もり表を作り直した。ただし今度は出発前の固定費の欄の下に、新しく「渡航後、収入ゼロで溶ける月数」という行を1本足した。ここを3ヶ月と置くか1ヶ月と置くかで総額が30万動くことを、自分の目で確かめるために。
2つ目、面接で聞かれる質問を10個書き出して、答えを英語で用意した。3つ目、その答えを声に出して練習する時間を、毎晩22時半からの25分に固定した。仕事帰りで疲れていても、この25分だけは動かさないと決めた。
貯金額よりも、私が今答えを持つべき問い
いくら貯めれば足りるか。この問いに私はもう2年間つかまっていた。でも本当に答えを出すべきなのは別の問いだった。私が現地に降りてから、最初の給料日までを何ヶ月に縮められるか。この月数が、150万という数字の値打ちを丸ごと決める。同じ150万でも、立ち上がりが3ヶ月なら45万が無収入で消え、1ヶ月なら15万で済む。その差の30万は、私がどれだけ英語を渡航前に仕上げたかで動く。
去年の12月に電車の中で電卓を叩いていた私は、削る場所を探して150万を3回書き直していた。今の私は、その150万をいじる前に、面接の答えを声に出す25分を先に確保している。貯めることは1日ずつしか進まないけれど、口が動くようになる練習は、今夜から始められる。5年後回しにしてきた私が、いちばん最初に置くべき一手は、貯金でもビザ代でもなく、これだった。
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